タイトル | 黄昏の郷愁 |
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監督 | ファジラ・アナンディヤ |
音響デザイン | アンドリュー・サプトロ |
制作国 | インドネシア |
制作年 | 2015 |
VDP上映年 | 2017 -都市生活- |
上映分数 | 23min |
使用言語 | インドネシア語 |
字幕 | 英語/日本語 |
タグ | ブタウィ, 伝統芸能, 楽器, 継承, 華人, 記憶 |
作品紹介
このドキュメンタリーは、ガンバン ・ クロモンの演奏者であるゴーヨン氏が、自らの過去の栄光について思い起こす姿を繊細に描写している。一人の男性が音楽の保存のために一生を捧げた様子を取リ上げることで、現代インドネシアが抱える伝統芸能存続の難しさを浮き彫りにする。
ファジラ・アナンディヤ
監督
29歳のファジラ・アナンディヤはビデオグラファーであり、映像作家でもある。2010年よりジャカルタ芸術大学に学び、2015年に文学士号を取得。『黄昏の郷愁』は彼のジャカルタ芸術大学での卒業制作である。本作品は、2015年インドネシア映画祭と2016年XXI短編映画祭で最優秀短編ドキュメンタリー部門にノミネートされた。またシリアでの2016年インドネシア映画週間でも上映され、2016年CILECT (国際映画テレビ教育連盟)では映画作品集入りを果たした。
アンドリュー・サプトロ
音響デザイン
25歳のアンドリュー・サプトロは、プロのリ・レコーディング・ミキサー、サウンド・デザイナー、およびサウンド・ミキサーで、インドネシアのジャカルタを拠点としている。音響・映像および映画産業で4年以上勤め、サウンド・レコーディストやサウンド・デザイナーとして、多くの短編やウェブ・シリーズ、コマーシャルを手掛けて来た。2015年に文学士号を取得。『黄昏の郷愁』は、ジャカルタ芸術大学でのファジラ・アナンディヤとの合同の卒業制作である。
インタビュー
このドキュメンタリーを制作した理由は?
どのようないきさつからこのテーマに取り組むこととなりましたか?
年齢とは、仕事や創造性を妨げるものではありません。年齢とは、客体あるいは主体の存在する時間を測る尺度に過ぎないのです。人間である私たちに定められた事は、多様な過程を経験するという事ですが、生きていく中で良い事だけを経験するとは限りません。時に最悪の事態に出くわす事もあるでしょうし、また経験豊富な人々に出会う事もあります。多くの良い事や悪い事を経験する事になります。人生の晩年の体験をより多く知りたいという関心から、私たちはゴーヨン氏として知られるウン・シンヤン氏に出会いました。彼はテヒヤン(ブタウィ楽器)の演奏家です。現在、この楽器を使用する事は稀有な事となり、ごく稀にこの演奏を耳にする機会があるとすれば、それは伝統音楽の催事ガンバン・クロモン・ショー、大きなあやつり人形を使用する民俗パフォーマンスのオンデル・オンデル、あるいは大衆演劇レノン・ブタウィなどといった、ブタウィ文化のイベントぐらいです。そして、私たちがこれらの二弦楽器を演奏できる人に出会うとなれば、さらに稀な事ではないでしょうか。ほとんどの場合、テヒヤン奏者はゴーヨン氏と同様に年を取っており、楽器を演奏し続ける事が困難となっています。このような問題を目前に私たちは映像作家として、彼の物語を人々に伝える事を迫られたのです。実にこの音楽芸術のため、またこれを存続させるため、そしてテヒヤンを世に広め、忘れ去られぬようにするために貢献したのです。
選考委員コメント
山本 博之
京都大学東南アジア地域研究研究所准教授 マレーシア地域研究、メデイア研究
インドネシアの首都ジャカルタの華人社会に伝わる二胡に似た弦楽器のテヒヤン(德嫣)は、かつて地域社会の祭礼に欠かせない楽器の1つだったが、ライフスタイルの変容に伴って演奏の機会が減っている。今日では数少なくなったテヒヤン職人のゴーヨン氏は、経済的に不安定な生活を日々送りながら、かつて楽団を率いていた父から引き継いだテヒヤンの制作と演奏を続けている。
専門家による解説
福岡正太
国立民族学博物館 教授
まず、私の率直な感想を述べます。この作品は、テヒヤンの奏者に密着して、淡々と彼の暮らしを撮っています。映像も、ストーリーも、恣意的に誇張するような部分がなく、そのためにゴーヨンさんの存在を身近に感じることができました。それがこの作品の良いところであると私は思います。
テヒヤン奏者のゴーヨンさんは、若い頃はテヒヤンの音楽を恥ずかしく思っていたこともあったようですが、現在ではテヒヤンの伝統を伝えていきたいと考え、息子にも教えています。家を建てることができたのだから、とても貧しいわけではないでしょうが、かといって裕福ではありません。家では、中国式の祈りを欠かさず、知り合いからバカにされることがあっても、日の出前からペットボトル拾いをして、日中は時間があれば楽器を作るというまじめさをもっています。彼がおかれているそうした状況と彼の人となりをよく捉えた作品だと思います。
テヒヤンは華人がもたらした楽器で、ブタウィとよばれるジャカルタ近辺に住む人々の音楽・芸能に広く使われています。オランダ植民地時代バタヴィアと呼ばれていた現在のジャカルタには、インドネシア各地から集まった人々に加え、華人も比較的たくさん住んでいました。やがてブタウィと呼ばれるようになった彼らの文化には、華人がもたらしたもの以外にも様々な起源のものが融合しています。また、スカルノ=ハッタ空港があるタングラン周辺には、多くの華人が住んでおり、彼らが伝えている中国起源の文化の中でも、テヒヤンは重要な位置を占めています。ちなみに作品中、ゴーヨンさんら3人がトラックの上で演奏しているシーンがありますが、あれはバンカ島で撮影されたそうです。テヒヤンはインドネシアの華人ネットワークの中でも意味をもつ楽器であることを示しています。
私がこの作品を見て、関心をもったことの1つは、監督がどのようにテヒヤンやブタウィの文化をとらえているかということです。タイトルは「黄昏の郷愁」となっていますが、私のブタウィ文化、特に音楽や芸能のイメージは、とても生き生きとしたものです。作品の中にも出てきますが、ギターやドラムなどと一緒に演奏することはブタウィの音楽では当たり前のことで、むしろそこにどん欲に様々なものを取り入れるブタウィらしさがあらわれているとも考えられます。
文化を伝えるということは、それを引き継ぐ次の世代の問題でもあります。もし若い監督の目にブタウィの文化が「黄昏の郷愁」に映るのであれば、ブタウィ文化は力を失ってきているということなのかもしれません。監督にとって、テヒヤンやブタウィ文化は単なる郷愁なのか、あるいは、新しい創作を刺激する力をもったものなのか、その答えはテヒヤンの将来を占うものになるでしょう。それは、この映像作品によって、どのように社会にコミットしていこうとしているのかという問題にもつながってくると思うからです。
(2017年12月・京都上映会開催時のコメントです)
石坂 健治
日本映画大学教授、東京国際映画祭シニア・プログラマー
二胡によく似た伝統楽器テヒヤンの奏者である65歳の主人公をとおして様々なものが見えてくる。祭りなど祝祭的な場に音楽は欠かせないが、こうした楽器は生き残っていけるのだろうか。名門ジャカルタ芸術大学(IKJ)出身の監督の的確なアプローチが光る。