ABCなんて知らない

Don't know much about ABC

タイトルABCなんて知らない
監督ノム・パニット 、ソク・チャンラド
制作国カンボジア
制作年2015
VDP上映年2017 -都市生活-
上映分数22min
使用言語クメール語
字幕英語/日本語
タグプノンペン, 子供, 学校, 教育, 父親, 貧困, 路上生活

作品紹介

カンボジアの首都プノンペンの路上のホームレスとして生きるある父子の姿を通して、彼らが抱える困難を映し出すドキュメンタリー。より良い未来を切り開くには教育が不可欠であることを示すとともに、ローン・ダラが息子を育てるために日々直面する試練をたどる。

ノム・パニット

監督

ノム・パニットは1989年、カンボジアのバッタンバンに生まれ、メディアに情熱的に取り組んでいる。視覚芸術を4年間、2Dアニメーションを2年間Phare Punleu Selpakで学び、卒業後はアニメーション・スタジオのアシスタントの職に従事した。2011年には昇進し、アニメーション教師となり、教育や人身売買、移住者等に焦点を当てた様々な短編アニメを製作した。また、ボパナ視聴覚リソースセンターにおける一年間の映画制作プログラムの参加者に選出された。この際に制作した短編ドキュメンタリー映画『ABCなんか知らない』が最初の作品である。また『Sorrow Factory』『 Guide Boy』『the Hunter』など他の映画ではカメラマンを務めた。

ソク・チャンラド

監督

1994年カンボジア・プノンペン生まれ。2014年から2016年までの間に5作品を手掛け、そのうちの1作品『Dhuka』が2016年ジュネーブ人権国際映画フォーラムで上映された。

監督へのインタビュー

このドキュメンタリーを制作した理由は?
どのようないきさつからこのテーマに取り組むこととなりましたか?

ドキュメンタリー映画がどのようなものなのか、これについて学ぶ機会を得るまでは全く知りませんでした。それは素晴らしい経験であり、大いなる学びのプロセスでありました。これによって私は自分の安全圏の外に、カンボジア社会に実在する社会の活動を担う人々の、実在の場における、実在の生活の物語があることを強く意識するようになりました。
プノンペンは首都であり、多くの人々が様々な地方から生活の糧を得ようと仕事を探しに来て住み着く所です。中にはプノンペンに寝泊まりする場所も、親類さえ持たない者達もあります。彼らは安価な(衛生状態の悪い)部屋を間借りして暮らし、日々の暮らしの糧を得ようと懸命に努力していますが、中には泊まる場所の部屋賃さえ払えない人々もいます。彼らは昼夜を通して働き、人の家や店の前など、適当な場所を見つけて泊まっているのです。
ホームレスの人々は世界中、特に各国の首都であればどこにでも見られるものです。この映画を通じて私が表現しようとしたのは、カンボジア社会の現実の小さな一部です。私が取り上げたのは首都でごみを収集して生計を立てるホームレスのシングル・ファーザーで、いわば、自らの必要最低限の要求も満たす事のできぬ人物です。この一事例は、この国の他のホームレスの人々の事例と非常によく似ています。ただし、ローン・ダラの場合は、息子を学校へやる事ができるように、父親として息子の面倒を見るという責任を全うしようとしているわけです。この映画で示しているのは、貧しい子供達の将来が、彼らの両親の今の考え方に大きく左右されるという事です。
私が他でもなくこの映画を作った理由は、いかにこのホームレスの貧しい男が、自分の息子の将来のために懸命の努力をしているかという事を見てほしかったからです。彼はお金の点では貧しくても、心は貧しくありません。つまり、ものごとを長い目で見る事ができています。彼は自分の息子が彼と同じように困難な人生を送る事を望んではいません。そこで様々な方法で自分の息子の勉強を支えようと模索するのですが、これは彼が、教育がよりよい将来への道であると確信しているからです。

選考委員コメント

速水 洋子

京都大学東南アジア地域研究研究所教授 文化人類学

プノンペンの繁華街でゴミ収集をなりわいとして、その日暮らしの路上生活をする男性とその愛児の生活を、彼らの目線で撮った作品。不安定で危なっかしい生活のなかで、父親としての子への思い、教育を受けて立派に育ってほしいという思いが、痛いほどに伝わる。カンボジアでは、2万を超える子供たちが路上生活をしながら働いているといわれる。いつまで父に守られた生活を続けられるだろうかと、見ている者が苦しくなる。

石坂 健治

日本映画大学教授、東京国際映画祭シニア・プログラマー

プノンペンの片隅に生きる父と子。貧困から抜け出すためには教育が重要というシンプルで骨太のメッセージが心に残る。本作はリティ・パン監督の推薦により、去る10月の東京国際映画祭でも上映されて大きな反響を呼んだ。

専門家によるコメント

小林 知

東南アジア地域研究研究所 教授

 このドキュメンタリーの舞台は、カンボジアの首都のプノンペンの路上です。路上の生活、ホームレスの人々の日常が撮影の対象です。まず何よりも、それは、経済発展の光と影を映しだしています。最近のカンボジアは、大変なスピードで経済発展を遂げています。いまプノンペンを訪れると、最新のiPhoneをもち、車や家を買い、綺麗なレストランで食事することを楽しんでいる人々を多くみます。経済発展は多くの人々に幸福をもたらしました。しかし、貧しい人はいつまでも貧しいということも事実です。
 撮影されているのは王宮近くの街並みです。父親はゴミを拾い、息子を学校に通わせています。学校は市の中心部の大きな仏教寺院のなかにあるようです。NGOが運営するものだと思います。カンボジアでは仏教寺院と学校教育が古くから結びついています。路上の子供に教育を提供する場所が寺院にあるという点は、文化的な伝統を感じさせ、興味深く感じました。
 このドキュメンタリーについては、「より良い未来を切り開くには教育が不可欠であることを示す」ものであり、教育の重要性を訴えるものだという意見が、監督自身の紹介文や識者の講評のなかにあります。しかし、わたしは、教育というテーマをこの映像から強く感じませんでした。それよりも、「子供への愛情」と「動かしがたい貧困」という普遍的なテーマを感じました。この2つの普遍的なメッセージは、この映像の強さの基本だと思います。
 一方でわたしは、映像が捉えた父親の生き様に惹きつけられました。彼は妻と長らく会っていないようです。異父兄弟とは犬猿の仲です。彼が生活を共にしているのは、息子と、同じく路上で暮らす何人かの仲間だけです。
わたしの調査の経験によると、カンボジアでは、病気がちでさえなければ、比較的簡単に生きる場所と術を探すことができます。土地がなくても、労働してお金を稼いだらよいでしょう。実際多くの人々が、生活に困ると、出稼ぎにでかけます。子供も親類に預けたり、お寺に住まわせて僧侶の食べ残しをいただいたりして、生きる場所を与えることができます。教育も小学校レベルなら経済的な負担は少なく、通わせる方法を探すことも可能だと思います。
 映像が映す生活をみると、いまは、息子を学校に通わせ、着る服も買うことができています。しかし、そのような父子の時間は、実に危ういバランスの上に成り立った幸せです。正直、近い別れが予想されます。撮影時に息子は5歳だったそうです。まだ純粋無垢で、貧しさがどのようなものかよく分かっていません。しかし、もう少し大きくなれば、彼には彼の、父や社会に対する考えが生まれます。教育を考えるのであれば、息子を孤児院に預けて、父親がひとりで働いた方が、将来を見据えた行動だといえるかもしれません。
 では、なぜ父は、プノンペンの路上で暮らすのでしょう。彼には、人との関係を絶ちたいという欲望があるように思います。他の人との関係をたち切って生きたいがために、故郷には帰りたくないし、田舎にも住みたくない。そのため、都市に身を置き、子供との関係に逃げ込んでいるようにみえます。わたしは、父親を批判しているのではありません。それは人間らしい行動のひとつだと思います。もちろん、なぜ父はそのような生き様を選んだのか、子供の母はどのような人なのかなど、様々な想像が掻き立てられます。
 ここで父親の生き様と街の映像が示しているのは、別の見方をすると、そのような生き様を許容し、受け入れる都市の<路上>という空間の性質かもしれません。それは、『しらさぎ』や『黄昏の郷愁』が捉えたものとは別の種類の人間の姿と、都市の特徴を浮かび上がらせています。<路上>にて、人間としての苦しみにもだえる姿。それは、普遍的なものです。ここ京都にも、タイのバンコクでも、アメリカのニューヨークにも、都市の<路上>には、人間としての苦しみに不器用に向かい合う人がいるのではないでしょうか。このメッセージも、普遍的なものであり、このドキュメンタリーの映像の強さをつくっていると思います。